京都西陣 株式会社帛撰(はくせん) hakusen
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「訪問着 経錦 段替文」

「訪問着 経錦 段替文」
手織り

今回は帯ではなく、訪問着を紹介します。
織の組織は「経錦」(たてにしき)。大変古い織技で、中国前漢代(紀元前202年〜8年)に「羅」と共に完成したものです。
唐代(紀元618年〜907年)の初め頃に「緯錦」(よこにしき)という新しい織物が登場するまで、錦といえば経錦がその中心でした。日本においては上代裂(古代裂)、つまり中国からの輸入品として珍重され、法隆寺・正倉院に今も残っています。

経錦は、紋様を表現する経糸(たていと)と、2種の緯糸(よこいと)とで織り成されています。
まず3色を一本とする経糸*1と、母緯(おもぬき)という緯糸で地組織*2をつくります。そして表現する紋様に応じて経糸を表裏に分ける陰緯(かげぬき)という緯糸。この3つから構成されます。

経糸の開口が困難であった時代、いかに経糸の上げ下げの回数を少なくして美しい紋様を織りだすか――古代の人の工夫の末に生み出されたのが上記の方法です。緯糸を操作するよりも、経糸を操作する方が簡単だったのか、経錦も羅も絣(太子間道)も、みな経糸で柄が表現されています。

前述のとおり、紀元600年頃になると錦の中心は緯錦に変化し、経錦の技術は途絶えてゆきました。明治の初めに岡倉天心やフェノロサ等の影響にて西陣にて研究され、佐々木信三郎氏、龍村平蔵氏、川島甚平氏等により復元されるまで、経錦は織られることはなかったのです。
その理由は定かではないですが、経錦は織巾の中に、小さな紋様が横に並ぶものしか表現できなかったのに対し、緯錦は織巾と同じ大きな紋様を織り出すことができました。豪華さの違いゆえに経錦は途絶え、緯錦が台頭していったとも考えられます。

数年前に3〜4世紀の「緯錦」が美術館に展示されているのを見たことがあります。が、この頃の緯錦とはかなり珍しいものはずです。織物は耳が残っていないと経錦か緯錦かの判別は困難とききました。耳のないこの織物は、あるいは経錦であったのかも知れません。

さて、解説が長くなりましたが、本品は現在の西陣にて織り上げた、経錦の訪問着です。
地は平織の経錦でありながら、紋様の一部は綾織の経錦。非常に希なるものです。しかも経糸に絣を併用し、段替わりの色変わりにしています。

復元はもちろん大事ですが、それだけではいけません。復元の意味とは、昔の人の工夫を知り、その上に現在の発展した技術を応用すること。今でこそ創り得るものをと努力すること――これが、ものづくり人の役目であると考えています。
*1経錦は3色の経糸の組み合わせが多いのですが、中には6色の経糸を用いるものもあります。
*2地組織は、主に平地、それに綾地のものがあり、どちらも現存します。

(2008年6月)
「訪問着 経錦 段替文」ディテール「訪問着 経錦 段替文」ディテール
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色柄を違えてもう一枚〜「訪問着 経錦 段替文」
明るく淡い色合いの一枚です。
「訪問着 経錦 段替文」
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同じ経錦を帯で〜「袋帯 経錦 獅噛文 長斑」
獅子が歯をむき出して、何かに噛みついているような威嚇的形相をした紋様です。獅子は古くから権威・強さの象徴とされてきました。獅子噛もしくは獅噛と呼びます。
また、織物の地色に2色〜数色を経に用い、縞目を織り出すのを「長斑」といいます。
「袋帯 経錦 獅噛文 長斑」
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【掲載誌】
弊社の経錦についての詳しい記事が淡交社刊行「京都で、きもの Vol.2」(P90〜P93「古代の高貴な織物 経錦の輝き」)に掲載しています。

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