学術上は「上代裂」といいますが、「古代裂」のほうが解りやすいので、このタイトルにしました。
日本では法隆寺と東大寺(の正倉院)の二つの寺に残った裂のみを古代裂といいます。法隆寺裂が一万点、正倉院裂が二十万点といわれています。数としては正倉院裂が圧倒的に多いのですが、法隆寺と東大寺の時代差は120年程の差がありますし、文様的にも違いがあります。
古代裂の主な種類としては、
- 織物
錦(経錦・緯錦) 綴織 経絣・緯絣 風通 綾 紗 羅 絁(あしぎぬ) 縬(しじら) 薄絹 麻布
- 染物
夾纈 √秩@絞纈 繧繝
などがあります。
羅と経錦は前漢代に完成されたとされ、唐代(618〜)に緯錦が完成されるまでは、経錦が錦の中心でした。
唐代に緯錦が完成すると、なぜ経錦は織られなくなったのでしょうか。
織物は経糸と緯糸が直角に交差するのが原則です。それには経糸を上下させなければなりません。古代においては経糸の上下、つまり杼道を開口することは、実に大変なことでした。
経錦は二回経糸を上下することで文様を織りだすことができます。一方緯錦は使用する緯糸が多ければ多いほど、その緯糸をとじる経糸を上下しなければなりません。経錦のほうが製織は簡単なのです。ただ経錦には、文様を表現するのに必要となる色数の経糸を整経しなければならないという、機ごしらえの苦労がありました。また色数や文様の大きさに、やはり制限がありました。
緯錦はその点自由がきき、開口技術の発達と共に、多色使いの、幅いっぱいの文様が織り出せるようになりました。文様は大きく、そして豪華になり、経錦から緯錦の時代へと変化していきました。
続いて、染物。夾纈・√秩E絞纈、以上三纈の中でも、夾纈は羅に染められているものが多いようです。染色技術としては夾纈が最も難を要します。その夾纈が同じく製織の難しい羅に染められているのです。羅が大事にされた理由は、軽く、しかも透ける優雅さにあったのではないでしょうか。幡という荘厳具にも羅の夾纈染があります。ゆらゆらと風になびき、透けた色と文様の舞う優雅さに古代人は魅了されたのではと思うのです。
夾纈と羅――。一番難しい染と織を合体させた古代人が、未来の我々に対して大自慢しているように感じます。また現代の染織業界の「穴が空いて透けている羅=夏物」という無粋な認識も、笑われているような気がします。
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